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死を覚悟した測量で「間宮海峡」を確認した、江戸時代の探検家 『間宮 林蔵(まみや りんぞう)』

2015年2月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2015年1月1日時点の内容です

2人の測量家の出会いが日本の新しい地図を作る

日本の測量の見事さを後世に伝えた伊能忠敬と間宮林蔵は、1800(寛政12)年、蝦夷地・箱館(現・函館)で出会う。忠敬は55歳。全国を徒歩で実測しようという試みに着手したばかりだった。

一方の林蔵は21歳。農村から江戸へ出て地図作りを学び、地理学者・村上島之丞の従者として箱館にいた。この偶然の出会いで、忠敬は林蔵を弟子にする事を約束。林蔵はその後、1809(文化6)年、樺太(現・サハリン島)探検で樺太が島である事を確認。さらには忠敬の偉業『大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)』の重要な担い手となる。

林蔵の名を刻んだ間宮海峡はユーラシア大陸と樺太の間に位置し、長さは650km以上、最狭部は約7km、海外では「タタール海峡」と呼ばれている。当時、樺太は島かどうかが不明とされ、幕府がひそかに林蔵に調査を命じた。その背景には、開国を迫るロシアを恐れ、北方の警備を強固にしたい幕府の思惑があった。林蔵ははじめ、武士の松田伝十郎と2人で宗谷岬から船で樺太へ向かった。二手に分かれて樺太を北上するが、過酷な旅路のため一度宗谷へ戻る。そして翌年、林蔵一人が地元のアイヌを案内役に2度目の踏破に挑戦。船で樺太から大陸へも渡り、ついに樺太が島である事を確認する。

写真左:稚内市北方記念館に展示されている林蔵の直筆といわれる『カラフト図』写真右:宗谷岬から3kmの場所に立つ「間宮林蔵渡樺出港の地」と林蔵が残したという墓石の跡

伊能忠敬の空白部分を埋めた、林蔵の精密な測量データ

江戸に戻った林蔵は、村上貞助の協力を得て、地形や地名などについて丹念に書き込んだ『北蝦夷島地図(きたえぞとうちず)』『東韃地方紀行(とうだつちほうきこう)』『北夷分界余話(ほくいぶんかいよわ)』を幕府に提出する。間宮海峡の名は1832(天保3)年、ドイツ人医師シーボルトが著書『日本』の中で記した事により、世界に広まった。そして再び忠敬から「緯度計測法」を学んだ林蔵は、忠敬が未測量の部分を調査する。忠敬自らも「大凡(おおよそ)、六八州の駅路、沿海、四周、島嶼(とうしょう)にいたるまで遺漏はない。さらに間宮林藏の測るところを取り、地図を参補し七たび裘葛(きゅうかつ)(年)をあらためて始めて成った。名づけて大日本沿海輿地全図という(『輿地実測録』序文より)」と記している。01年、アメリカで忠敬の地図の写しが見つかり、林蔵について、より多くの功績が解明されつつある。

写真:林蔵の資料を展示した北方記念館(稚内市ヤムワッカナイ ※2014年11/1〜2015年4/28まで閉館)

PROFILE

間宮 林蔵(まみや・りんぞう)

常陸(ひたち)国筑波郡(つくばごおり)上平柳(かみひらやなぎ)村(現・茨城県つくばみらい市)生まれ。正確な生誕年や江戸に出た経緯は詳細不明。治水工事に来ていた幕府の役人に治水の才能を見い出され、江戸へ出たという説もある。蝦夷地御用雇となり蝦夷地を測量。地理学者・村上島之丞や伊能忠敬に測量を学んだ他、松前奉行に捕らえられていたロシア人軍艦長ゴローニンにも面会して、測量法を聞いている。晩年は幕府の隠密を務めたという。1844年逝去。

EPISODE

過酷な測量の日々を乗り越え正確に記された蝦夷地

伊能忠敬の死後完成した『大日本沿海輿地全図』の根幹ともいえる『伊能大図』は、全214面あり、蝦夷地は37図、サイズは1図で縦176.9cm、横106.8cmもある物も。稚内市北方記念館では写しの一部を展示。日本海側とオホーツク沿岸部は林蔵が5年かけて測量したと伝えられる。わずかな食糧を携えた測量の日々は過酷で、林蔵は樺太へ向け出発する前に墓石を残したという。

編集:(株)KADOKAWA
文:山平有紀  参考文献:『極東 はるかなる旅人 林蔵の道』(北海道新聞編集委員報告特別編)、
『間宮林蔵』(著:洞富雄 発行:吉川弘文館)、『間宮林蔵〜北方地理学の建設者』(著:赤羽榮一)ほか

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2015年2月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2015年1月1日時点の内容です

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