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「北海道」の命名に、アイヌの人々への尊厳を込めた幕末の探検家 『松浦 武四郎(まつうら たけしろう)』

2015年3月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2015年2月1日時点の内容です

お伊勢参りの旅人に憧れ蝦夷(えぞ)地に精通する探検家に

俳人・松尾芭蕉が「漂泊の思ひやまず」と詠んだように、松浦武四郎もまた旅に魅入られた生涯を送っている。武四郎の生家は、伊勢神宮へおかげ参りに向かう旅人でにぎわう街道にあり、幼いころから旅の空気に憧れて育った。16歳で初めて江戸へ家出し(すぐに連れ戻される)、その後も「四国八十八ケ所」など諸国をめぐり、いつしか蝦夷地に精通する探検家となっていった。

武四郎は6度蝦夷地へ渡ったといわれている。当時の蝦夷は松前藩が支配する松前地や西・北・東蝦夷と分かれ、渡航に制限があった。そのため1845(弘化2)年に初めて蝦夷の地を踏んだ際には、商人の使用人として知床へ向かったという。その後は49(嘉永2)年まで2度蝦夷へ渡り、樺太(からふと)や国後(くなしり)、択捉(えとろふ)など各地を渡り歩いた。

写真左:天塩(てしお)川流域調査の出発の地に立つ石像と歌碑(天塩町鏡沼海浜公園内) 写真中央:松浦武四郎踏査之地碑(美深町びふかアイランドびふか温泉正面) 写真右:「カイ」の由来を伝える北海道命名之地(木碑)(音威子府村物満内天塩川河川敷)

北海道・遠軽町在住の松浦武四郎研究家・秋葉實(みのる)氏は、50年以上にわたって武四郎の日誌を読み解き、その足跡を明らかにしている。秋葉氏の著書『松浦武四郎 上川紀行』によると、この49年までの渡航を基に武四郎は地名や地形、気候、動植物などについて『初航・蝦夷日誌』など三種の蝦夷日誌、計35巻を執筆。徳川斉昭(なりあき)に献上し、これが幕府の目に留まり、55(安政2)年に蝦夷地御用御雇入れの命を受ける。

武四郎、アイヌの救済を願い出る

武四郎は幕府の御雇いとなってからも『丁巳・戌午東西蝦夷山川(ていし ぼごとうざいえぞさんせん)地理取調日誌(計85巻)』などを記し、その多くにアイヌの人々について書き記した。アイヌの窮状を知った武四郎は、彼らを苦しめる「場所請負制度」などを改めさせようと幕府に建言するが、制度が水面下で存続したため59年に御雇御免願を出す。明治維新後は再び箱館(現・函館)府判事、蝦夷地開拓御用掛、開拓判官に登用され、「北海道」の改称に関わった。三重県松阪市には「松浦武四郎記念館」があり、著書の他、晩年の武四郎が収集した骨董品などが展示されている。

PROFILE

松浦 武四郎(まつうら たけしろう)

1818(文化15)年、伊勢国一志郡須川村(現・三重県松阪市小野江町)生まれ。平戸で僧侶となるが、27歳で帰郷して還俗(げんぞく)し、1845(弘化2)年初めて蝦夷へ渡る。調査中は幕府に告げ口される事を恐れた者から妨害される事もあった。天塩川は1857(安政4)年に河口から調査している。武四郎の日誌は挿絵が細かく、読み物としても興味深い。蝦夷地の改称や地名の命名にはアイヌ語を生かす事を提言した。1888(明治21)年逝去。

EPISODE

武四郎の思いが込められた「北海道」の本当の意味

武四郎は天塩川流域で、アイヌ語の「カイ」が、「この国に生まれた者」という意味を持つ事、また『参考熱田大神縁起頭書』に「夷人自らその国を呼ぶに加伊という」とあった事から、「この地は、北にあるカイの人々の国」という意味を込めて「北加伊道」と命名。幕府はこれを取り入れて「東海道」などにならい、1869(明治2)年に蝦夷地を「北海道」と改称した。

編集:(株)KADOKAWA 文:山平有紀
参考文献:『松浦武四郎 上川紀行』旭川叢書第28巻(著:秋葉實)、
『天塩日誌』(著:松浦武四郎 訳:丸山道子)ほか

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2015年3月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2015年2月1日時点の内容です

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