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開拓使ビールの誕生の地を、北海道に築いた薩摩藩士 『村橋 久成(むらはし ひさなり)』

2015年7月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2015年6月1日時点の内容です

ビール工場建設予定地を東京から北海道に変える

大きな目には、先見の明があったのかもしれない。村橋久成が抱いた「北海道こそがビール製造の地にふさわしい」との思いは、みごと、現在のサッポロビールの礎となった。

明治維新という時代のどんでん返しの最中、政治の中心にいた薩摩藩出身の大久保利通、黒田清隆らは、次々と官主導の事業を始める。その一つが、麦酒(ビール)の醸造であった。

北海道の開拓のため1869(明治2)年に開拓使が置かれ、74年に三代目開拓長官となった黒田は、北海道の気候がビールの原料、大麦の生育に適していて、野生のホップがあるなどの報告を受けていた。自身も諸外国の文化を見聞し、「日本人もやがてビールを飲むようになるだろう」と予見していたのか、官営の醸造事業を推進する。

しかし当初、醸造所の建設予定地は東京だった。それを「札幌へ」と願い出たのが久成だ。開拓使で琴似兵村(ことにへいそん)の建設などを担当していた久成は、日本人として初めてドイツで醸造法を学んだ中川清兵衛から、製造には清涼な水や大量の氷が必要であると聞き、75年に建設予定地は札幌が適切であるとの稟議(りんぎ)書を提出する。久成の進言は、偶然、ドイツ公使・青木周蔵の意見とも一致し、開拓使の方針は変更された。

麦酒醸造所の完成と、開拓使ビールのその後

久成は、認可が下りるとすぐに中川清兵衛をはじめ、大麦の育て方に詳しい者や、酒の醸造技術者などを集めて札幌へ向かい、醸造所建設に着手する。76年には「開拓使麦酒醸造所」が、現在の札幌市中央区北2条東4丁目に、同じく官営の葡萄酒醸造所と隣接して完成。敷地面積は約1万1902㎡、そばには豊平川の支流も流れていた。今も残っている開業式の写真には、樽に、「麦とホップを製す連者(れば)ビイルとゆふ酒になる」と書かれた当時の様子が写っている(写真左)。この翌年、醸造所初のビールも完成し、東京で待ちかねていた黒田や名士たちへと送られた。

久成はその後開拓使を辞職、醸造所も民間へと移譲されるが、時代は変わっても、北海道には今も変わらずビールがよく似合う。

写真左: 開拓使麦酒醸造所開業式の写真(1876年撮影) 写真中央:開拓使麦酒醸造所の歴史を展示するサッポロビール博物館(札幌市東区北7条東9丁目1) 写真右:開拓使のシンボルでもある"五稜星"を掲げたビールびんラベル(1878年に使用)

PROFILE

村橋 久成(むらはし ひさなり)

1842(天保13)年、薩摩藩(現・鹿児島県)加治木島津家の分家に生まれる。65年に薩摩藩の命令でイギリスに留学。帰国後、箱館戦争で、新政府軍として功績を上げる。71年から開拓使に採用され、75年、麦酒醸造地に関する稟議書を提出。79年勧業課長兼務勧業試験場長となるが、81年開拓使を辞職。その後の消息はよくわかっていない。92年に亡くなる。

EPISODE

開拓使を辞職した久成と開拓使官有物払下げ事件

開拓使麦酒醸造所はその後、黒田清隆によって同じ薩摩藩出身の実業家、五代友厚に譲渡されようとしていたが、その兆候を感じていたのか、久成は1881(明治14)年に開拓使を辞職する。直後に黒田の計画は「北海道開拓使官有物払下げ事件」として社会問題化した。久成は92年に神戸で身元不明のまま亡くなり、身元がわかると、黒田ら縁のあった人々が葬儀を執り行った。

編集:(株)KADOKAWA 文:山平有紀
参考文献:『夢のサムライ』(西村英樹著)、『サッポロビール120年史』(サッポロビール株式会社発行)、『残響』(田中和夫著)ほか

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2015年7月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2015年6月1日時点の内容です

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