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秀作「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」を描き、人々を圧倒した松前藩家老 『蠣崎波響(かきざき はきょう)』

2015年9月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2015年8月1日時点の内容です

フランスで発見された波響筆「夷酋列像」の原画

北海道南西部の桜の名所、松前町にある法源寺に眠る画人・蠣崎波響が、12人のアイヌの有力者を描いた「夷酋列像」。この原画は長く行方不明だったが、1980年代にフランスのブザンソン美術考古博物館で11点が見つかり、今月北海道博物館で公開される。海を渡った経緯は今も謎のままだ。

「夷酋列像」は「絹本着色(けんぽんちゃくしょく)」という、絹地に濃淡の彩色を施す技法が使われていて、1枚のサイズはおよそ縦40cm×横30cm。モデルの人物は一人一人が強い個性を放っている。描かれているのは1789(寛政1)年、アイヌの人びとが幕府や商人たちの圧制に堪えかねて蜂起した「クナシリ・メナシの戦い」の際に、松前藩が鎮圧のため武力などを背景に協力させたアイヌの有力者たち。この戦いの翌年、松前藩主・道廣は、波響に命じて彼らを描かせた。

波響は松前家の生まれだが、家老の蠣崎家に跡継ぎがなかったため養子となり、生涯家臣として藩を支えた。藩主の道廣は異母兄に当たる。幼少のころから画才が認められ、叔父の勧めで浮世絵や漢詩など、さまざまな文化が花開く江戸へ出て、絵師の建部綾足(あやたり)や宋紫石(そうしせき)、後に大原呑響からも絵を学んだ。また、詩人としても優れた作品を残している。

写真左:ことしの4月にオープンした北海道博物館(札幌市厚別区厚別町小野幌53-2)
写真中央:小玉貞良筆「松前屏風」。宝暦年間の松前城下を克明に表現している
写真右:「夷酋列像」の人物たち(ブザンソン美術考古博物館所蔵。左から4番目のみ個人所蔵)

松前藩の復領を目指し、財政支援のために絵を描く

「夷酋列像」を完成して以降、他藩の絵師によって模写されるほど、波響の名声は京都や江戸の文化人に瞬く間に広まった。一方松前家は、北方の警備体制について幕府から疑念を抱かれ、1807(文化4)年に奥州梁川(やながわ)へ領地替えとなってしまう。この時波響は大名などからの注文に応じて大量の絵を描いてはその代金で藩の財政を支え、1821(文政4)年、松前家は奥州梁川から旧領松前への復領を果たした。

晩年の波響は60歳で職を退き、花鳥風月を愛し、好きな絵を描き続けた。かつて京都では円山応挙(おうきょ)に学び、酒井抱一(ほういつ)、松村呉春(ごしゅん)、村上東洲(とうしゅう)らと交遊した波響は、豊かな画風を確立していた。人柄は温かく、野菜を届けてくれた農家へのお礼に、扇面に絵を描いて感謝の気持ちを伝えたという。

PROFILE

蠣崎波響(かきざき はきょう)

1764(明和1)年、松前藩藩主松前資廣の五男として福山館(現・北海道松前町)で生まれ、家臣蠣崎家の養子となる。幼名金助、後に廣年を名乗る。波響は画号。幼少のころから江戸で教養として詩句や絵画を学ぶ。重臣として藩に仕えながら、藩主の命により「夷酋列像」を完成。京都や江戸で、詩人や画人などと親交を温め、細やかな人柄は多くの文化人に愛されたという。1826(文政9)年に松前で亡くなり、法源寺に眠る。

EPISODE

貴重な「夷酋列像」の原画と蝦夷地の文化がそろう特別展

独特の構図と色彩で描かれた「夷酋列像」。展示では、波響の原画をはじめ、大名たちが所持した模写や、衣装や装身具の実物なども並ぶ。

北海道博物館開館記念特別展
「夷酋列像〜蝦夷地イメージをめぐる 人・物・世界」

会場:北海道博物館
開催期間:2015年9月5日(土)〜11月8日(日)
※詳細は要問い合わせ(ハローダイヤル 011・898・0466)
http://event.hokkaido-np.co.jp/ishuretsuzo/

編集:(株)KADOKAWA 文:山平有紀
参考文献:『松前藩の画人と近世絵画史』(著:磯崎康彦 発行:雄山閣)、
『蠣崎波響の生涯』(著:中村真一郎 発行:新潮社)ほか

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2015年9月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2015年8月1日時点の内容です

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