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北海道・伊達市の礎を築き、西洋式農業をいち早く導入した領主 『伊達邦成(だて くにしげ)』

2015年11月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2015年10月1日時点の内容です

戊辰戦争での敗北を機に家臣と共に北海道へ

「独眼竜(どくがんりゅう)政宗」の異名を持つ武将・伊達政宗を生み出し、東北一帯で威光を放っていた「仙台藩伊達家」。その栄光も戊辰戦争の最中、1868(明治1)年の奥羽越列藩同盟の敗北で、家中離散の危機に直面する。新たな道を探す中、亘理(わたり)領主・伊達邦成が決意したのは、家臣との北海道開拓だった。

邦成は、北方警備と北海道開拓を掲げることで明治政府の信頼を回復し、 家臣の生活も保護したいと考えていた。そして信頼を寄せていた重臣の常盤新九郎(後に田村顕允(あきまさ))の政府への上申によって、北海道・有珠(うす)郡(現・伊達市)の開拓を許可される。邦成の故郷を捨て、新天地を目指す孤立無縁の決意に家臣は感激したという。

1870年、いよいよ初の移住団250名が有珠郡に移る。この時邦成は事前に有珠郡の気候や育てやすい農作物、住居や交通について調査し、必要な備えを家臣に指示していた。また移住者には単身移住を許さず、家族一緒を義務付け、移住先では土地を平等に分配し、先住の人々には礼を尽くすよう規則を定めたという。

伊達家が北海道の厳しい環境でも発展できた理由は、もともと優れた武士団であったと同時に、家臣を思う邦成の配慮が背景にあったことが伺える。

写真左:当時の伊達家所有の工芸品やひな人形などを展示する伊達市開拓記念館
写真中央:男爵の称号授与を記念して旧家臣が建てた迎賓館(伊達市梅本町61-2)
写真右:貞操院保子が大切にしていた蒔絵台付きのオルゴール(伊達市開拓記念館蔵)

北海道開拓の模範となり、西洋式農業にも着手

有珠郡に入植した亘理の人々は、故郷を懐かしみつつも病院や郵便局、学校と、少しずつ生活基盤を調えていく。開拓使も有珠郡の発展に目を留め、黒田清隆は邦成と、同じく北海道の当別に入植していた兄の伊達邦直と面談し、開拓を進めるための方法を政府に提言するように伝えたという。

やがて苦しい日々にも変化が訪れる。開拓直後に平民とされた武士に士族復籍が許され、邦成自身も開拓の功績により男爵の位が与えられた。開拓した地域の「モンベツ」は1900(明治33)年に「伊達村」と命名された。

邦成は北海道における西洋式農法の先駆けともいわれ、それまで鍬(くわ)で耕していた畑に「プラウ」と呼ばれる馬の動力で耕す農耕機具を導入。北海道の農業を飛躍的に進歩させた。

PROFILE

伊達邦成(だてくにしげ)

伊達邦成(仙台藩亘理伊達家15代当主)1841(天保12)年、岩出山領主の伊達家に生まれ、1859(安政6)年に亘理伊達家の養子となる。貞操院保子は邦成の養母。当初は2万4,000石の領主だったが、戊辰戦争後に58石に減じられたため、家臣と共に北海道有珠郡へ移住する。移住は1870(明治3)年から12年間続き、約2,800名が移住した。1904(明治37)年に逝去。旧伊達邸の跡地約7,000坪の庭園内には伊達市開拓記念館や迎賓館(伊達市指定文化財)などが残されている。

EPISODE

"仙台藩最後のお姫様"貞操院保子(ていそういんやすこ)も北海道へ

それぞれの思いを抱えた北への移住。その志を支えたのが、宗藩13代慶邦の実の妹であり、"仙台藩最後の姫"といわれた貞操院保子だった。第3回の移住団と有珠郡へ渡り、慎ましく気丈な人柄は家臣を精神的に支えた。家財道具の多くは開拓の費用のために処分されたが、開拓記念館には、蒔絵(まきえ)台付きのオルゴールなど、往年の栄華を偲(しの)ぶ品がひっそりと展示されている。

編集:(株)KADOKAWA 文:山平有紀
参考文献:『伊達市史』(発行:伊達市)、伊達市開拓記念館パンフレット他

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2015年11月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2015年10月1日時点の内容です

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