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熱き思いで定山渓温泉を守り、名を残した修験者『美泉定山(みいずみ じょうざん)』

2016年1月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2015年12月1日時点の内容です

行方知れずとなっていた真言宗の修験者、定山坊

札幌市民の身近な温泉郷として親しまれている「定山渓温泉」。備前(現・岡山県)から蝦夷地(現・北海道)へ渡ってきた真言宗の修験者、美泉定山(以下定山坊)によって1866(慶応2)年に開かれ、ことしで開湯150周年を迎える。雪に包まれた渓谷が美しい景勝地になぜ修験者の名が刻まれ、温泉の開祖として奉られているのか―。

北海道在住のノンフィクション作家、合田一道氏は定山坊に関する資料を30年にわたって調べ、『私解 定山坊の生涯』(太陽選書)を出版している。合田氏が定山坊に興味を抱いたきっかけは、1877(明治10)年以降の消息が"行方不明"とされていたことだったという。実は1979(昭和54)年に合田氏が小樽市・正法寺の過去帳で「美泉定山法印」の戒名を見つけるまでは、定山坊は正月の門松を採りに山に入り、そのまま行方が分からなくなったというのが定説だった。もしかすると生きていてほしいという周囲の願いが、そんな言い伝えを生んだのかもしれない。

定山坊はいつのころからか、温泉で人々を癒したいとの願いを抱いていて、その原点は、故郷の岡山県にある湯郷温泉に伝わる、慈覚大円仁法師が温泉で多くの病を治したという伝説にあったとも言われている。

写真左:札幌市内中心部から車で約50分ほどの定山渓温泉の温泉街
写真右:定山坊の名前が付けられた名物の温泉まんじゅう

豊平川上流で出合った温泉開拓使が湯守を命じる

道南にある、高野山真言宗の観音寺(現・江差町泊村)や、道南五大霊場の一つ、山岳霊場・太田神社(現・せたな町大成区。日本海を見下ろす崖の難所にある参道で知られる)を渡り歩いた定山坊は、1861(文久1)年ごろ張碓(はりうす)川の上流にある湯の沢鉱泉(現・小樽市張碓)を見つけ、当初はこの地で祈祷(きとう)などを行っていた。

そして地元のアイヌの青年に導かれて豊平川上流で豊かに溢れ出る温泉を見つけ、温泉の整備や道路の開削に奔走する。やがてその熱意が周囲にも伝わり、1871(明治4)年に開拓使から湯守を命じられ、開拓長官・東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)によりこの地は「定山渓(当時は常山渓)」と名付けられた。定山渓温泉はその後交通が整備され、「札幌の奥座敷」と呼ばれるほどの華やかな温泉街へと発展していく。

写真:歴史を展示する定山渓郷土博物館(開館は5〜10月・予約制)

PROFILE

美泉定山(幼名は常三(つねぞう))

1805(文化2)年、備前国赤坂郡周匝(さい)村(現・岡山県赤磐市)で、繁昌院を生家として生まれる。17歳ごろから修験者となって霊山を巡り、仙台や秋田を経て蝦夷地へ。1866年、定山渓温泉を開く。見た目はボロボロの僧衣を着た大男だが、慈愛に満ちた人柄は、人々に慕われたという。1877年以降、消息は不明とされていたが、1979年に、合田一道氏の調査により亡くなっていたことが判明した。

EPISODE

常三から常山、そして定山へ 北の桃源郷に故郷の名を刻む

生涯自らの寺を持たなかった定山坊が、唯一残したのが、故郷・備前国を彷彿とさせる「名前」だった。定山坊は、3度名前を変えている。常三として生まれ開拓使から湯守を命じられた時は故郷の山と同じ「常山」とし、最後に美しい温泉の湧く山に居を定める、「美泉定山」と名乗った。美泉は「びせん」とも読み、その響きからは定山坊の故郷を懐かしむ思いが伝わってくる。

編集:(株)KADOKAWA 文:山平有紀
参考文献:『定山と定山渓』(著:小林定典)、『私解 定山坊の生涯』(著:合田一道、発行:太陽選書)

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2016年1月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2015年12月1日時点の内容です

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