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北海道へのスキーの伝道者となり、羊蹄山(ようていざん)でスキー登山に挑戦『テオドール・フォン・レルヒ』

2016年2月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2016年1月5日時点の内容です

日本へのスキーの伝道者が冬の旭川で講習会を開く

日本のスキー文化は、オーストリア・ハンガリー帝国軍のレルヒ少佐が、1911(明治44)年に豪雪地帯の越後高田(現・新潟県上越市)において、スキー講習会を開いたのが始まりとされている。北欧の何千年もの歴史に比べると、日本はことしで105周年。一説によると、1902年に青森の歩兵第5連隊が、冬の八甲田山の訓練で200人以上遭難し、この悲報を聞いた北欧の国からの助言が、高田でのスキー講習会のきっかけになったという。

レルヒは自らスキーを持参して日本軍の視察に訪れ、高田で日本初のスキー講習会を開催。その翌年に旭川第7師団に移り、2月20日ごろから約3週にわたり、北海道初の講習会を開いた。「メテレ、スキー!(スキーを着けよ)」の号令で始まった講習会は、レルヒがアルペンスキーの生みの親、マティアス・ツダルスキーに直接学んだ滑走方式を基本に、平地滑走や斜面滑走、テレマーク、ボーゲンなどが指導された。対象は将校やスキーに興味津々の地元の有志たち。軍用の革靴に高田から取り寄せたスキーを着け、一本づえでバランスを取りつつどうにかスキーで滑ろうとするものの、転んで全身雪まみれになる者が続出。雪原は大いににぎわったという。

写真左:旭川空港ビル前に建つ「レルヒ中佐顕彰像」(北村善平作)
写真中央:竹製の一本づえを手にしたレルヒ中佐(中央)
写真右:羊蹄山登山スキーを記念して建てられたレルヒ記念公園の銅像

北海道にスキー文化の種をまき北国の冬に喜びをもたらす

レルヒは日本で山岳スキーも楽しみ、北海道の羊蹄山(標高1898m)にも挑んでいる。1912年4月レルヒは、将校や小樽新聞の記者ら総勢10人で倶知安(くっちゃん)村(現・倶知安町)を出発。途中猛吹雪に見舞われ、氷のような斜面をスキーをかついでの登山となるが、どうにか頂上付近まで到達した。

レルヒは北海道を離れると、名古屋や京都、広島などを訪れた後に帰国。日本での日々をつづった『明治 日本の思い出』は、1970(昭和45)年に日本でも翻訳本が出版された。

レルヒが伝えたスキーはその後、スポーツとして広まり、札幌や小樽ではスキークラブが誕生。旭川では郵便局員が冬の配達に役立てることもあった。そして何よりスキーは、北海道の長い冬に喜びを与えてくれた。

※レルヒは、日本滞在中に少佐から中佐へと昇進したため、時期により肩書きが異なっています

PROFILE

テオドール・フォン・レルヒ

1869(明治2)年8月、オーストリア・ハンガリー帝国プレスブルグ(現・スロバキア・ブラチスラバ)生まれ。士官学校を経て軍に入隊し、ハンガリー軍のためにスキーの指導書を作成したマティアス・ツダルスキーに技術を学ぶ。日本へは視察目的で来日。新潟県や北海道でスキーの講習会を開き、「日本のスキーの父」と呼ばれる。1945年逝去。

EPISODE

レルヒが日本に伝えた1本づえのアルペンスキー

レルヒは、日本にスキーを伝える際に、2本のつえを使い雪原を素早く移動できるノルウェー式ではなく、雪の斜面を1本のつえで滑る滑走方式の方が適していると推奨した。その技術は、身長より長めのスキー板を履き、つえ(ストック)を1本だけ手に持ち、バランス良く体重移動しながら斜面を滑降するスタイル。つえの素材には、竹が用いられていた。


編集:(株)KADOKAWA 文:山平有紀
参考文献:『日本スキー・ほんとうの源流』(著:中浦皓至 発行:レルヒの会)、『倶知安町史』(編:倶知安町史編纂委員会)、『日本スキー事始め』(著:長岡忠一 発行:ベースボール・マガジン社)他

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2016年2月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2016年1月5日時点の内容です

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