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情熱と行動力で、根釧台地に酪農王国の基礎を築いた『佐上信一(さがみ しんいち)』

2016年4月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2016年3月1日時点の内容です

農民を苦しめる原野が酪農王国へ生まれ変わる

北海道の東部、釧路〜根室の両管内に広がる根釧台地は、日本最大の酪農地帯。中でも別海(べつかい)町は約1万5700人の人口に対し牛が約11万頭と圧倒的に多く、全国有数の生乳生産量を誇る。かつては開拓農民を苦しめた原野がバター、チーズなど乳製品の故郷へと方向転換できた陰には、第21代北海道庁長官、佐上信一の英断があった。

未曽有の冷害がこの広い原野一帯を襲った1929(昭和4)年〜32年、暮らしに困窮した農民たちは窮状を訴えようと団結。32年に札幌で開催された「北海道凶作水害善後対策道民大会」に1000人以上が参加して、北海道庁へ早急な救済策を求めた。

この時の冷害は全道各地を襲い、佐上に届く陳情や嘆願書は一つや二つではなかったが、佐上は同年10月には根釧台地を自ら視察。現地で農民と向き合い、「だまされたと思って10年頑張ってくれ。笑って、手を握り、肩をたたき合う日が来るぞ」と彼らを激励した。議会などには原野の開拓を放棄しようという意見もある中、佐上はすぐに各方面へ働き掛け、33年には「根釧原野農業開発五カ年計画」を策定。「8割補助の乳牛導入」「農民生活充実のための無料診察の実施」などの新しい施策で多くの農民たちを救った。

写真左:佐上を「酪農の父」とたたえる胸像(別海町役場ロビーに設置)
写真中央:1932年の視察時に農民への思いを誓った書(提供:NPO法人伝成館まちづくり協議会)
写真右:1943年に揮毫した「牛群如雲」(所蔵:雪印メグミルクなかしべつ工場)

雲のように群れを成す牛の姿に感動する

新たな施策により根室管内は33年から約5年間で、3000頭以上の乳牛が導入され、酪農王国の基盤を築く。

任期中、凶作、不漁、函館の大火に見舞われ「凶作長官」というありがたくない異名を受けた佐上だったが、10年後の43年、北海道庁長官を退官後、防空協会常務理事として根釧地方を訪れると、地元の農民に心からの歓迎を受ける。この時佐上は原野に広がる牧草地と乳牛の群れを目にして、「牛群如雲」と揮毫(きごう)し、うれし涙をこぼしたという。そして同じ年の秋、九州出張からの帰りに移動中の汽車の中で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。

66年に別海村(現・別海町)は、乳牛飼育頭数2万頭突破の祝典を開催。村のために尽力してくれた佐上への思いを込めて、胸像を建立した。

PROFILE

佐上信一(さがみしんいち)

1882(明治15)年、広島県佐伯郡五日市村(現・広島市佐伯区)に生まれる。東京帝国大学を卒業後内務省に勤務。内務省神社局長を経て岡山県知事、長崎県知事、京都府知事を歴任。1931(昭和6)年に第21代北海道庁長官に就任。任期中(昭和6〜11年)に、大規模な冷害が続き「凶作長官」と呼ばれたが、優れた行政手腕と情のある人柄は、後に根釧台地に生きる人々から「酪農の父」と慕われた。1943年逝去。

EPISODE

北海道の文化を重んじ、手土産は道産尽くしに

今でこそ北海道の各市町村が特産品を道外でPRするのは珍しくないが、佐上は自ら"歩く北海道物産"のごとく、農家が手でつむいだ厚い生地で仕立てた洋服を身に着け、手土産にはシシャモやニシンなど名産品を用いたという。北海道に赴任してからは大自然の中でスキーや登山、ゴルフを楽しんだ他、自然保護にも努め、大雪山国立公園の指定にも奔走した。


編集:(株)KADOKAWA 文:山平有紀
参考文献:『佐上信一』(編:佐上武弘/非売品)、『別海農協史』(編:別海町百年史編纂委員会)他

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2016年4月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2016年3月1日時点の内容です

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