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私財を投じて温泉場を開いた、登別カルルス温泉郷の開祖『日野久橘(ひの きゅうきつ)』

2016年7月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2016年6月1日時点の内容です

チェコの温泉名が由来 北海道初の国民保養温泉地

「登別市カルルス町」という不思議な住所がある。カルルスはチェコにある世界的な温泉保養地、カルロヴィ・ヴァリ(ドイツ語名はカルルス・バード)から名付けられた。この異国の地の温泉とカルルス町で見つかった温泉の泉質が、似ていたのが理由だ。

命名したのは、私財をなげうってまでこの地の発展に尽くした日野久橘。登別といえば大地から熱泉が噴出する火口跡、「地獄谷」で知られる登別温泉郷が有名だが、その約8㎞北西の山間にある登別カルルス温泉もまた、静かな環境でゆったりと湯につかりたい湯治客に人気を博している。

カルルス温泉を最初に発見したのは、久橘の養父に当たる仙台藩白石城主片倉家の旧家臣、日野愛憙(あいき)("あいき"は通称)。片倉家は戊辰戦争後に胆振国幌別郡(現・登別市)の領有を新政府に認められ、愛憙も27歳のころに移り住む。そして1886(明治19)年に登別川上流で温泉を見つけ、その効能に驚く。一方の久橘は、陸奥国北会津(現・福島県)生まれ。愛憙同様、胆振国白老郡白老村を経て幌別へと移り住み、愛憙が指導していた仮教育所で学んだのをきっかけに養子となった。久橘も、愛憙が見つけた温泉を3年後に確認し、飲用して胃病の改善を実感すると、幌別村から温泉場まで約14㎞の道を切り開き、1899年に薬種商をしていた市田重太郎と共同で旅館「寿館」と浴場を開設。カルルス温泉と命名した。

写真:1920年前後のカルルス温泉の全景。右奥が寿館(現・鈴木旅館・提供:登別市郷土資料館)

日露戦争の多くの兵を癒やし自然の大切さを説く

その後カルルス温泉の効能が広まり、日露戦争中に旭川陸軍予備病院の療養地として、多くの負傷兵を癒やした。生前久橘は次の言葉を遺している。「内地各方面の温泉を視察するに、その多くは人工加わり遊蕩(ゆうとう)気分漲(みなぎ)り、真に湯治保養に叶うもの少なくなりつつあるを思い一層当初の信念を強うし、当温泉には絶対に花柳(かりゅう)気分を入れざることとし、また大自然に接するの如何に療養上効果あるかを想い、温泉地より一眸(いちぼう)の中にある樹木は一切伐採するを許さず(原文ママ)」。2つ目の旅館には「洗心館」(現存せず)と名付けた久橘。強い信念が伝わってくる。

写真左:橘湖。命名の翌年、久橘はコイやヒメマス5万匹を放流し、家族と水遊びを楽しんだ
写真右:開場二十五年紀念碑(1924年建立)。カルルス温泉には他にも久橘の碑が残されている

PROFILE

日野久橘(ひのきゅうきつ)

1858(安政5)年、陸奥国北会津郡生まれ。北海道で日野愛憙の養子となり、後に分籍。1899(明治32)年、カルルス温泉場を開く。1909年、当時の逓信大臣後藤新平が来泉。近くの湖に久橘の名を採って「橘湖」と命名。1916(大正5)年、共同経営者の市田重太郎から経営の全権を譲り受ける。1919年幌別村の村会議員に当選。1935(昭和10)年逝去。

EPISODE

養父、愛憙の思いを酌んだ幌別カルルス温泉場開業式

日野久橘の養父、日野愛憙は仕えていた片倉家のことを常に思い、入植当時の苦労を『明治二年以降 片倉家北海道移住顚末』につづった。その思いを知っていたのか、久橘は1899(明治32)年8月6日の幌別カルルス温泉場開業式に、男爵の称号を授与されていた片倉景光をはじめ400名の来賓を招き、神楽獅子の手古舞などを披露する華やかな式典を催した。


編集:(株)KADOKAWA 文:山平有紀
肖像画像提供:登別市郷土資料館
参考文献:『カルルス温泉開湯百周年記念誌 山峡の名湯』(発行:カルルス温泉開湯百周年記念実行委員会)

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2016年7月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2016年6月1日時点の内容です

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