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幕臣を救いたいと、蝦夷(えぞ)地を目指した幕末の海軍副総裁『榎本武揚(えのもと たけあき)』

2016年9月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2016年8月1日時点の内容です

江戸幕府が海軍強化のためオランダへ人材を派遣する

幕府が海軍強化のために、莫大な予算をかけてオランダで建造したが、横浜港に届けられた翌年には、江差(えさし)沖で沈没する運命となった軍艦・開陽丸。江差には沈みゆく船を見つめ、土方歳三が涙を流した「嘆きの松」が今も残る。

幕末の激動の歴史の中では、はかない存在の開陽丸だが、榎本武揚には、同志のような格別な思いがあった。

1850年代、諸外国の威力に恐れをなして開国を余儀なくされた幕府は、海軍の重要性を感じ、オランダに軍艦の製造と人材の育成を依頼する。その留学生に選ばれたのが武揚。幼少のころから学問に優れ、当時は幕府が設立した長崎の海軍伝習所で学んでいた。ちなみに幼名は釜次郎。兄は鍋太郎といい、父親が「鍋と釜があれば食うことには困るまい」と名付けたという。

留学生一行は、オランダに向かう途中、船が難破するなどの苦難に遭いながらも無事に到着。現地では、着工された軍艦の製造と競うように寝る間も惜しみ、慣れないオランダ語に苦労しつつ国際法、財政学、統計学、蒸気機関学、大砲や火薬の製造法、砲術、造船、鉄工などを身に付けていく。

そして開陽丸と名付けられた軍艦が1865年に進水式を迎えた時、彼らは正装で参列して心から喜び合った。

写真左:江差町郷土資料館の敷地にある「嘆きの松」(檜山郡江差町中歌町112)
写真中央:実物大で復元された開陽丸。江差町の港に建てられている
写真右:開陽丸の船内には榎本武揚や土方歳三の人形も展示している

幕臣を率いて開陽丸と共に新天地、蝦夷地へ

開陽丸と帰国した彼らを待っていたのは、幕府の存亡の危機だった。

海軍副総裁に任命された武揚は、大政奉還で職を失った多くの幕臣のため、彼らを率いると、「自分たちの行動は私利私欲からではなく、旧幕臣のためのやむを得ずの行動」と書き残し、開陽丸と共に蝦夷地を目指す。

しかし蝦夷地で武揚を待っていたのは開陽丸の沈没と箱館戦争での敗北だった。武揚は東京に護送され、共に留学した澤太郎左衛門らと兵部省の監獄に収容される。だが、黒田清隆に国際法の知識や外交能力を高く評価されたこともあり、特赦により釈放され、その後は北海道の開拓や千島(ちしま)樺太(からふと)交換条約に政治手腕を発揮した。オランダで培った知識が彼の命を救い、また、明治の日本を大きく発展させた。

PROFILE

榎本武揚(えのもと たけあき)

1836(天保7)年、江戸(現・東京都)下谷で生まれる。江戸幕府の派遣でオランダに留学し、帰国後幕府海軍の副総裁に。幕末、蝦夷地を目指して開陽丸を出港させる。戊辰戦争で降伏後、黒田清隆に命を救われ、明治政府では開拓使、駐露特命全権大使、外務大臣、農商務大臣、枢密顧問官などを歴任。1898(明治31)年、鉄隕石で「流星刀」を造り、皇太子に献上。72歳で亡くなる。

EPISODE

「万国海律全書」が黒田清隆の心を動かす

榎本武揚はオランダで、やがてわが身を救う1冊の本と出合う。海上国際法の教本として与えられたフランスの法学者オルトランの著書を自ら写し取り、帰国の際に持ち帰ったが、これが後に「万国海律全書」と呼ばれる本である。箱館戦争で五稜郭が落城する際、榎本はこの本を新政府軍参謀の黒田清隆に託し、黒田は武揚の国を思う熱意に触れ、感謝の意を表したという。


編集:(株)KADOKAWA 文:山平有紀
肖像画像提供:国立国会図書館ウェブサイトより転載
参考文献:『幕末・開陽丸』(著:石橋藤雄)他

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2016年9月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2016年8月1日時点の内容です

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