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松前藩が恐れた、蝦夷地調査の先駆者『最上徳内(もがみ とくない)』

2016年10月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2016年9月1日時点の内容です

行商などで家業を助け父親の亡き後に江戸へ

最上徳内は、伊能忠敬(1745~1818)や、松浦武四郎(1818~1888)に先駆けて蝦夷地(現・北海道)を調査し、幕府の北方への執政に影響を与えた人物。だが、その実力を発揮するまでには少し時間がかかっている。

徳内は、たばこの栽培などを生業とする出羽国村山郡の農家に生まれ、若いころは家業を助ける事に追われた。江戸へ出たのは25歳前後と伝えられ、父親が亡くなり、奉公先と学問所を探していた時に出会ったのが、数学者の本多利明だった。徳内は、下働きをしながら本多の私塾で天文学や算術、測量術などを学び、やがて師の信頼を得ると、徳川幕府老中、田沼意次(たぬまおきつぐ)が編成した蝦夷地検分隊に、師の代理として同行できるチャンスをつかむ。

この時、徳内の身分は「竿取(さおとり)(測量の際に目盛りのついた竹竿を扱う役目)」にすぎなかったが、検分隊が予想以上に困難なため千島の調査を断念しようとすると、周囲を驚かす行動にでる。仲間の一人と地元の漁師も怖気づくような荒波に漕ぎ出してクナシリ(現・国後島)へ渡り、無事に戻ると今度は一行が松前で越冬する間にエトロフ(現・択捉島)などへ渡り、千島の情報を集めるなどし、蝦夷地の内情を幕府に知られたくない松前藩に恐れられた。

生涯で9度蝦夷地を調査し蝦夷地初の官製道路を開削

徳内は蝦夷地調査の度に、綿密な報告書でその名を知られるようになり、やがて土木工事などを担う普請(ふしん)役に昇進する。1798(寛政10)年の大規模な調査では、幕臣の近藤重蔵が徳内の同行を願い出て、この時、エトロフに「大日本恵登呂府 寛政10年戌午7月近藤重蔵、最上徳内」の標柱を建てている。

徳内は山道の開削を監督する道路掛りも命じられている。現・様似(さまに)町から襟裳(えりも)岬を横断する山道は、"東蝦夷地最大の難所"と言われ、幕府により整備が計画されると、徳内は、約30㎞の"猿留(さるる)山道"を担当した。2009年にえりも町ではこの山道を町の文化財に指定し、保存に取り組んでいる。

晩年の徳内は、生涯市井の学者として学問を怠らず、妻子にも恵まれて過ごしたという。

写真左:ボランティアによる猿留山道の保全作業
写真中央:猿留山道の近くにある、上空からハート形に見える湖「豊似(とよに)湖」
写真右:難所として知られた様似山道の幌満(ほろまん)入口のある岩場

PROFILE

最上徳内(もがみ とくない)

1755(宝暦5)年、出羽国村山郡楯岡村(現・山形県村山市)の農家に生まれ、幼名は房吉または元吉。幼いころは家業を手伝い、父親の死後に江戸へ出て、本多利明の門下生となる。やがて師の代理として田沼意次が編成した蝦夷地検分隊に加わり、その後、全9回蝦夷地を調査。『蝦夷草紙』などを残す。1836(天保7)年に83歳で亡くなる。

EPISODE

シーボルトと共同でアイヌ語の辞典を作る

国禁の地図を持ち出そうとして国外追放された「シーボルト事件」で知られる、オランダ商館付き医師だったシーボルト。江戸では最上徳内と交流し、徳内を学識豊かな老人であると述べ、共著でアイヌ語の辞典を編集している。シーボルトは30代、徳内は70歳を過ぎていた。シーボルトはその後1832年刊行の『NIPPON』で樺太の図を掲載し、徳内について書き残した。


編集:(株)KADOKAWA 文:山平有紀
肖像画像提供:福岡県立図書館
参考文献:『人物叢書最上徳内 日本歴史学会編集』(著:島谷良吉、発行:吉川弘文館)他

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2016年10月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2016年9月1日時点の内容です

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