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箱館に私財を投じて繁栄を築き、日露の和平に尽力した豪商『高田屋嘉兵衛(たかだや かへえ)』

2017年1月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2016年12月1日時点の内容です

朝日が北から昇る夢を見て、箱館港に勝負を懸ける

1806(文化3)年、家屋の半数以上が焼け落ちた箱館大火で、真っ先に焼け出された人々に米や金銭、古着を与え、長屋を用意し、木材や日用品を元値で売った商人がいた。廻船問屋、高田屋嘉兵衛だ。1796(寛政8)年に初めての自身の持ち船、辰悦丸(しんえつまる)で箱館港へやって来て、まさに龍が天を駆け昇るごとく己の才気で商機をつかみ、わずか5年で幕府御用達の蝦夷地定雇船頭となった男だった。

嘉兵衛は、淡路国都志本村(つしほんむら)(現・兵庫県洲本市)の出身。家はつつましく暮らす農家だった。幼いころから負けん気が強く、身内のつてで兵庫へ出て樽廻船(たるかいせん)(貨物船)で働くようになると、あちこちの港で商いを学び、いつしか自分も船を持ち、荷を売り買いしたいと思うようになる。船を持つには莫大な費用が必要だったが、鰹網漁業で大きく稼ぎ、一五〇〇石という大型の辰悦丸を手に入れる。当時、諸国の輸送は船が中心。蝦夷地は海産物の宝庫だったが、栄えていた江差(えさし)や松前の港はすでに松前藩や一部の商人が独占していたため、新参者が入り込むのは難しかった。それでも朝日が北から昇る夢を見た嘉兵衛は、商機は蝦夷地にあると確信し、当時まだ規模の小さかった箱館港に目を付ける。

写真:「辰悦丸」の模型(五色町高田屋嘉兵衛翁記念館発行絵葉書より:函館市中央図書館蔵)

幕府の命でエトロフを調査 日露友好の橋渡しにもなる

嘉兵衛にとって追い風となったのは、江戸幕府がロシアの動向を警戒し、蝦夷地を直轄したことだった。すでに幕府の命令で近藤重蔵らと共にエトロフを調査してその信頼を得ていた嘉兵衛は、エトロフへの航路と漁場を開き、1801(享和元)年に、蝦夷地定雇船頭という大役を幕府に任じられる。

もう一つ、嘉兵衛の名を高めたのが、1811(文化8)年に幕府がロシア軍艦の艦長を幽閉した「ゴローニン事件」。国後島沖を航行中、交渉を優位に進めたいロシア側に偶然拘束された嘉兵衛は、乗せられていたディアナ号の副艦長リコルドと信頼関係を築き、嘉兵衛の仲介によって無事ゴローニンは解放される。この件で生まれたロシアとの友好関係は、今も子孫によって大切に育まれている。

写真左:高田屋造船所跡地に建つ、箱館高田屋嘉兵衛資料館外観(函館市末広町13-22)
写真右:函館開港100年を記念し、画家・梁川剛一が制作した銅像(1958年建立・函館市宝来町9)

PROFILE

高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)

1769(明和6)年、淡路国都志本の農家に生まれる。27歳で辰悦丸の船持ち船頭となり「高田屋」の屋号を掲げる。間もなく幕府の御用商人となり、「箱館に高田屋あり」と称されるほどの隆盛を誇る。ゴローニン事件の解決後、体調を崩して、1818(文政元)年に淡路へ戻る。1827年に逝去。嘉兵衛の死後、高田屋は名声をねたむ商人らによって謀られ財産没収となるが、1911年に嘉兵衛に正五位が追贈された。
肖像画像提供:50歳ごろの嘉兵衛肖像(函館市中央図書館)

EPISODE

「利益は地域に還元を」箱館の人々を愛した嘉兵衛

高田屋は商いで得た利益を惜しみなく地域に還元した。1804年に箱館に造船所を造ると、百石以上の船を造る際には植林を命じ、自ら函館山に松や杉を植えた。
また兵庫からハマグリ、コイ、ウナギなどを運び、養殖事業も始めた。ある時不漁で景気が低迷すると、官許を得て港の整備を発案。漁民の他、子どもから老人まで働くことができ、街が大いに活気づいた。


編集:(株)KADOKAWA 文:山平有紀
肖像画像提供:50歳ごろの嘉兵衛肖像(函館市中央図書館)
参考文献:『高田屋嘉兵衛』(著:須藤隆仙 発行:国書刊行会)他

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2017年1月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2016年12月1日時点の内容です

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