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鹿追(しかおい)の大地に生き、本質を描こうとしながら32歳で逝った画家『神田日勝(かんだにっしょう)』

2017年2月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2017年1月1日時点の内容です

ベニヤ板に描かれた半身だけの農耕馬

北海道・鹿追町にある神田日勝記念美術館に、183×204㎝のベニヤ板に描かれた一枚の馬の絵がある。それは、脚がすらりとした優美な姿ではなく、がっしりとした強靭(きょうじん)な体で農具を引き、畑を耕す農耕用の馬。半身だけ描かれた黒い馬は突然描き手を失い、未完のまま展示されている。

今にも絵の具の匂いが立ち上りそうな馬を描いたのが、32歳で急逝した画家・神田日勝。東京生まれの日勝は、父親が「拓北農兵隊」に応募したことから8歳の時に一家で鹿追村に移り住む。当時政府は食料増産と都市住民の疎開を進めており、一家が村で生活を始めたのは終戦日の前日、1945年8月14日だった。与えられた土地は農地というよりも原野で、一家は開拓農家として厳しい暮らしを強いられる。

日勝は子どものころから友人に絵を描いて見せるほどの腕前だったが、兄の一明も画才があり、兄は高校を卒業後東京藝術大学油画科へ進み、日勝は中学を卒業後実家の農業を継ぐ。それでも19歳の時、帯広で開かれた美術展に出品、『痩馬』という作品で朝日奨励賞を受賞。23歳の時には「全道展」で初入選、翌年には兄が道教育長賞を、日勝が道知事賞を受賞し、日勝は期待の新人として知られるようになる。

写真:牛の世話をする1967年ごろの神田日勝

生活者として生き、画家として描く

日勝の絵の多くはベニヤ板にペインティングナイフで描かれた。その方が「自分が表現したいことに合っている」と言い、その手法を好んだ。一時期、同時代の美術潮流や画家仲間との交流などから色彩豊かな新しい画風にも挑戦しているが、その陰には中央の画壇への野心もあったという。

やがて画家として少しずつ絵の注文が入り始めるが、両親と妻と子ども2人を養うのは難しく、日勝は農作業の合間に絵を描き続ける。そしてある日、風邪をこじらせ入院し、そのまま32歳で帰らぬ人となった。

ベニヤ板を前に、見る者は想像する。日勝が描いたであろう絵の続きを。もし生きていたら、どんなふうに本質を捉えていただろうかと。永遠に描かれることのない馬を前に。

写真左:『馬(絶筆・未完)』(1970年 油彩・鉛筆・ベニヤ:神田日勝記念美術館蔵)
写真右:1993年に開館した神田日勝記念美術館(河東郡鹿追町東町3-2)

PROFILE

神田日勝(かんだにっしょう)

1937(昭和12)年12月8日東京市板橋区に生まれる。"日勝"の名は戦時中「日本の勝利」を願い父が付けた。8歳の時に一家で鹿追村の開拓用地に入植。中学を卒業後19歳から美術展で数々入賞し、24歳の時に第16回全道展で兄と共に入賞、「農民画家」として注目される。25歳で高野ミサ子と結婚。1970年夏、風邪が悪化して体調を崩し、腎盂(じんう)炎による敗血症で32歳の短い生涯を終える。
画像提供:神田日勝記念美術館

EPISODE

短い生涯の作品を集めた神田日勝記念美術館

亡くなる1カ月前に「結局、どう云う作品が生まれるかは、どう云う生きかたをするかにかかっている。(中略)どう生きるのか、と、どう描くかの終わりのない思考のいたちごっこが私の生活の骨組みなのだ」と書き残した神田日勝。鹿追町にある神田日勝記念美術館には作品をはじめ、デッサンや書簡など約200点の短い生涯の軌跡が収蔵されている。


編集:(株)KADOKAWA 文:山平有紀
画像提供:神田日勝記念美術館
参考文献:『北海道立近代美術館編ミュージアム新書(4)神田日勝―北辺のリアリスト』
(著:鈴木正實 発行:北海道新聞社)

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2017年2月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2017年1月1日時点の内容です

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