cat_title_jinbutsuden.jpg

地域医療に尽くし、アイヌの人からも信頼された医師『高橋房次(たかはしふさじ)』

2017年3月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2017年2月1日時点の内容です

誰でも治療を受けられるよう白老(しらおい)で生涯を捧げる

往診用の黒いかばんを持ち、コートと帽子姿で、深夜でも病人の家へ駆け付けると枕元に座り、「どうだい?」と優しく声を掛ける。そして診療を終え、暮らし向きが厳しい様子を見て取ると、「ああ、よいよい」と治療費を受け取らず、逆に「もらい物を持って帰るのが面倒だ」などと言いながら、食品や衣類を置いていく。

1922(大正11)年にアイヌの集落に開設された北海道庁立白老病院の初代院長・高橋房次は、日々そうして、誰もが治療を受けやすいように心を尽くした。房次の母親は、栃木県下都賀郡乙女村(現・小山市乙女)で唯一の産婆で「大きくなったら世の中の貧しい人のために働きなさい」と常々言っていたという。そのせいか、房次は分けへだてなく患者に接し、当時の彼を懐かしむ人は、誰もが房次のおかげで安心して病院に通えたと口にした。

1882(明治15)年栃木県に生まれた房次は、医師免許を取得してすぐに、日露戦争の最中の遼東半島へ軍医として出征。復員後は警視庁検疫員も務めるが、兄弟が北海道に渡っていたこともあり、北海道や青森で医師として働き、1922年に「北海道旧土人保護法」の改正によって設立された白老病院に院長として着任する。

写真:往診に向かう高橋房次(撮影:掛川源一郎)

人は平等との信念を抱きアイヌの人々に信頼される

房次はかねてよりアイヌの人々がコタン(集落)から強制移住させられるなど、厳しい暮らしを強いられている状況を目の当たりにしていた。また当時、アイヌの人々は村役場に申請すると医療費の補助を受けられたが、わずかな金額では、肺結核などに苦しんでいても治療を受けることができなかった。

房次は、アイヌの人々の文化や言語を自ら学び、進んで家を訪ねた。治療費を受け取らない房次の暮らしはいつも質素だったが、治療費の代わりに作物や新鮮な魚介が届くので、食べるのには困らなかったという。

房次が亡くなった時、その知らせが町に広まると、家々から人々が飛び出し、房次の死を嘆き悲しむ声が村中に響き渡ったという。別れを惜しむ葬列は、千人を超えたと伝えられている。

写真左:房次が亡くなり、悲しみにくれる人々(撮影:掛川源一郎)
写真右:高橋医院の跡地(現・白老アイヌ民族記念広場)に立つ胸像

PROFILE

高橋房次(たかはしふさじ)

1882年、栃木県下都賀郡乙女村(現・小山市乙女)生まれ。東京医学専門学校済生学舎(後の日本医科大学)に学び22歳で医術開業試験に合格。1922年北海道庁立白老病院に院長として着任。同病院の閉院後、高橋病院を開業。長男を肺結核で亡くし、次男はシベリアで抑留されるなどの苦難もある中、地域医療に尽くす。1960(昭和35)年に亡くなり、白老町の禅照寺に眠る。
肖像画像:診察する高橋房次(撮影:掛川源一郎)

EPISODE

権威を嫌った高橋房次が名誉町民第1号に

写真家で知られる掛川源一郎は房次と交流があり、亡くなった後の1961(昭和36)年に「コタンの老医師」として『カメラ毎日87号』に作品を発表する。その記事は大きな反響を呼び、房次の医師としての姿勢は世間から称賛されるが、房次自身は生前、名誉町民第1号に推薦された時も承諾を渋り、「当たり前のことをしているだけだ」と、たたえられるのを極端に嫌ったという。


編集:(株)KADOKAWA 文:山平有紀
参考文献:『小山市立博物館開館30周年記念 第61回企画展 小山で生まれたアイヌコタンの医師 高橋房次』、
『いのちのしずく』(著:川嶋康男、発行:農山漁村文化協会)他

1703cover.jpg

2017年3月号 AIRDO機内誌「rapora」掲載
※情報は2017年2月1日時点の内容です

raporaはAIRDOが発行する機内誌です。
最新号はぜひ機内でお楽しみください。

TOPへ